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高田 克志
株式会社百景 代表取締役社長
広島県福山市出身。バブル期にインテリアデザイン専門学校を卒業後、店舗内装施工会社に勤務。その後、インテリアデザイン事務所勤務、大手流通企業のハウスエージェンシーの設計室長等を経て、同社を2009年に設立。店舗内装業の他、テレビ局の美術セットや、分譲マンションのモデルルーム等の企画、デザイン、設計施工に携わっている。
また、新宿歌舞伎町にて「member’s bar STILL」というバーを経営しながら、自らもバーテンダーとしてカウンターに立つ。「昼と夜の二毛作人生」の日々を送り、ストレスとは常に隣り合わせの不規則な生活をしつつも、いかにストレスと仲良く生きられるかを身をもって実践中。
こちらのサイトの「プロ・コメンテーター」の方々の華麗で豊富な経歴、実績をみる限り、私のような者が、何をコラムに書けば良いのだろうか・・と、私なりに考えた結果、自分自身の「バブル期のブラック企業(大阪・建設業編)」を書こうと思います。
私が、社会人デビューした今から30年前(1987年)は、まさにバブル景気の真っ只中でした。
インテリアデザイン専門学校の卒業を控え、就職先を決めるにあたり、内装業界の中でのいわゆる「大企業」「中小企業」「零細企業」の3社の面接を受けました。
当時はバブル景気=人材不足という事もあり、今のような就職難の状況とは対照的に、履歴書と学校での作品を持って行き、普通に面接を受ければ、まず内定を頂けて「いつから働けますか?給料は幾らぐらい欲しいですか?」と質問を受けるぐらいのいわゆる「売り手市場」の時代でした。
私のような者も例外ではなく、面接を受けた3社とも無事に内定を頂きました。
そこで、私が選択した会社は、一番最後に面接を受けた、従業員7~8名の「零細企業」に入社することに決めました。
何故かと言いますと・・デザイン専門学校を卒業したところで、専門知識が全くない学生にとって、図面など描けるはずもなく、ましてデザインなど出来るはずはない・・
まずは、現場で専門知識を習得した方が近道だと考えたのです。大企業の中で分業制での「小さな歯車」になるより、零細企業で「大きな歯車」になったほうが、仕事を早く覚え、デザイナーになるには近道だろうという志を抱き、まんまとブラック企業への入社となりました。
入社面接の最後に「3月×日の土曜日、○○通りの地下街の○○に、いま工事中の飲食店の現場があるから、一度現場の様子を見に来たらええわ。自分で現場を見て、仕事が出来そうやと思ったらうちの会社に来たらええし・・無理やと思ったら他の会社に行ったらええわ」と、その会社だけは割と素っ気ない対応でしたが・・・帰りに現場の地図が書かれた手書きのメモをもらいました。
そして当日・・これから自分が働くであろう職場環境を見に行くというよりは「社会見学」のような・・そして、わりと他人事のような軽い感覚で・・・
「すみませーん。失礼しまーーす」飲食店のドアを開けると、先日面接をして頂いた方(これから上司になる方)がいて、現場の中に通された。
50坪ほどの現場の中に、ザッと見る限り職人さんたちが十数名いて、各々が自分の仕事を黙々とこなしている。
何台かの電動工具が同時に放つ、けたたましい金属音の騒音と振動・・・
呼吸をするだけで口の中がザラつきそうな埃・・・
臭いを嗅ぐだけで気分が悪くなりそうな塗料の臭い・・・劣悪な環境の中で仕事をこなしている職人さんたちは、何となく苛立っていて、殺気立っているようにも見えました。
呆気にとられて、その場にぼーっと突っ立ていると、先ほどの上司からほうきとチリ取りとごみ袋を渡され「とりあえず掃除をしてくれ」と・・・
何時間だか分からないが(おそらく4~5時間ぐらい)次から次に沸いてくる木クズや埃を延々と掃除していると、今度は大工の親方らしき人が「にいちゃん、トラックに積んでいる材料をここに運んでくれ」やら、「にいちゃん、この材料、邪魔やからトラックに積んで来てくれ」やら・・・初対面の見ず知らずにも関わらず・・・この人、かなり人使いが荒い(汗)
バタバタと言われるがままに動いていたので、時間を全く気にしていなかったが、時計を見ると夜8時を過ぎている。
しかし、職人さんたちは、誰一人として仕事を止める気配すらない・・・
そして、やっと職人さんたちが道具を片付け始めたのは、最終電車も近い11時を過ぎた頃だった。
激しい疲労感と全身筋肉痛・・足腰はガタガタ・・
「これで、やっと今日は帰れる・・明日は、日曜日だからゆっくり休もう・・」
すると、上司が私に寄ってきて「高田くん、初日からお疲れやったね・・ほな、明日は8時半に現場に来てな・・今日はお疲れ、お疲れ・・」
上司に声を掛けられ、そこで初めて「日曜日が休みではない」ことを知る・・・
後日、上司から聞いた話だが・・次の日からもう来ないだろうと思っていたらしい。
次の日も、また次の日も・・・朝から夜中まで・・・懲りずに「掃除と片付けと材料運びの日々」を送ることになる。
そして、初めて「休日」というものを戴いたのは、世の中の人々の夏休み気分もすっかり抜け、蝉の鳴き声も聞こえなくなった9月の半ば頃だった。
とにかく、早く仕事を覚えて、この会社を辞めよう・・と思いながらも約四年半、この会社にはお世話になった。
ある日、前述の大工の親方と現場の近くの食堂で昼ご飯を食べながら世間話をしていると・・・
大工の親方が「そうそう・・昨日、テレビのニュースでやっとったけど、日本のバルブが弾けたらしいで!」
それって「バルブじゃなくて、『バブル』ですよ(笑)」というと・・・
「せや、せや・・バブルやバブル!・・ところで、高田くんバブルって何なん??」
今となって想えば、善くも悪くも良い時代だったと思います。