
東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊してから30年、今でも壁の恐ろしさを体感できるベルナウアー通りに行きました。2019年8月の暑い日でした。
ベルナウアー通り(Bernauer Straße)には、ベルリンの壁があった時代の緩衝地帯を再現している場所があります。そこでは、3mの高さのコンクリート製の壁があり、その壁の向こう側には幅数10mの更地があります。さらに、更地には監視塔があって、東西冷戦時代には常に東ドイツ兵が東ベルリン市民を見張っていました。
実際にここでは、壁が建設された当時、東ベルリンから西側へと逃れる人々が命を落とした場所でした。
不自由な東側から、自由な西側へと逃れたいと願った人々は多く、この壁そのものが相当なストレスをもたらすものだったと予想できます。分断された悲劇を知らない日本人には、想像することしかできませんが、ベルナウアー通りでは、分断の悲しみがダイレクトに伝わってくる場所でした。
悲願の再統一は1990年10月3日でした。
個人的なことでいうと、この日はバーデン・ヴュルテンベルク州の小さな村で迎えました。本当はベルリンに行きたい気持ちはあったのですが、諸事情があって静かな山間部の村にいました。統一を祝うかのような快晴の空、しかも季節外れの暑さまで伴っていました。芝生のある公園で、地元の老人たちとビールで乾杯したことが印象に残っています。
その後、ドイツを離れたことで、情報は限られた範囲のニュースなどで聞く程度となりました。
残念ながら、統一はすべてを解決へと導いたわけではありませんでした。
統一後に顕在化した東西の経済格差を埋めるのは難しく、同じドイツ人でありながら東西での環境格差は依然として残っているという情報が伝わってきました。そのような背景から、旧東ドイツ地域では極右の新興政党「AfD」が大躍進したことまで報じられました。
未だ東西には見えない壁が立ちはだかり、内なる壁はまだまだ巨大な存在として、しかも今後も続くのではないかと示唆されたのです。ただ忘れてならないのは、ベルリンの壁が崩壊したときは、旧東ドイツの人々は歓喜にあふれ、平和な革命を成し遂げたことで、歴史的な偉業を誇っていたのです。
この偉業の結果は、直接的に旧東ドイツの人々を西側と同一基準に至らしめたわけではありませんでした。東側の文化が根付いていたことはすぐに解消されることはなく、東西格差の現実を知ることになり、右傾化への道が開かれていきました。大きく顕在化する契機となったのは、メルケル首相による難民の受け入れを表明だったかもしれません。
最初に報道されたのは2014年結成の「PEGIDA」によるドレスデンのデモでしょうか。これはイスラム化に反対する欧州愛国者のデモでした。
さらに反EUを掲げる右派ポピュリスト党の「AfD」の躍進です。AFDとは「ドイツのためのもうひとつの選択」という意味で、反難民という立場を明確にしたことが追い風となりました。
旧東ドイツの人々は、旧西ドイツの人々と比較して、2級ドイツ人「Deutsche zweiter Klasse」だという劣等感を持つ人もいるといいます。この劣等感が強まり、既存の政党への不信感も加わっている可能性が高いといえます。
実際に人件費は未だ旧東ドイツの人が低く、政治や経済だけでなく、様々な文化的な分野も含めて、旧東ドイツの人の割合は圧倒的に低いというデータもあります。大学の学長などはすべて旧西ドイツ出身者で占められているともいわれます。これでは同じドイツ人ではない、という不満を持つのも分からなくはありません。
未だ解消されない旧東ドイツのストレスを解消するためのAFD支持だとしたら、統一前後を旧西ドイツ人と見届けた日本人の一人としては、あまりに悲しい気がします。
また、日本では働き方改革を論じるとき、生産性の低さが挙げられていました。よく比較されるのがドイツの生産性の高さでした。
しかし、そのドイツでも東西格差という問題があることを、多くの人は論じることはありませんでした。