ザンクト・パウリの夜

サッカーに詳しい人なら、ザンクト・パウリというとドイツのブンデスリーガ2部のチーム(FCザンクトパウリ)をイメージするかもしれません。さらにこのチームエンブレムが海賊のドクロであるのもご存知かもしれません。

ただ一般の人には馴染みのないチームでしょうし、しかもこのチームの背景や、ザンクト・パウリがいかなる地域なのかを理解している人も少ないでしょう。
サッカー観戦でストレスを発散させる人には、ここまでの情報は不要であるのは承知のうえで、あえて今回は、ザンクト・パウリの夜にご招待したいと思います。

そもそもザンクト・パウリとは、ドイツのハンブルクにある地域の名です。人口約175万人のハンブルクの中でも、ザンクト・パウリは特別な場所と言えます。それを代表するのがレーパーバーンです。ビートルズでお馴染みの街ですが、FCザンクトパウリを語る上でも大いに関係してきます。

まず、FCザンクトパウリのホームはレーパーバーンのすぐ近くで、徒歩でも10分程度で行ける距離にあります。
このレパーバーンこそ、「世界で最も罪深い1マイル」などとも称されるドイツ最大の歓楽街です。
日本でいえば新宿の歌舞伎町となるでしょうか。ただ実際の雰囲気はかなり異なります。どちらも喧騒の街ですが、当然ながら港町の歓楽街にある特有の背徳感は歌舞伎町にはありません。

また、歌舞伎町も国際的な街といえますが、レーパーバーンと比較すると全くローカルな印象になってしまいます。
それはハンブルクがドイツ屈指の港湾都市であり、しかも歴史も古く、世界中から長い航海を経て港へ上陸した船員が集まる場所だからです。
世界中から集まった大勢の海の男たちは、この港から歓楽街へと駆け込んでいきました。いわゆる風俗産業が発展し、同性愛者なども集まり、混沌とした街になっていきました。同時に合法・非合法関係なく、あらゆる移民も集まり、世界の様々な文化がこの街に交差する独特な世界をつくりあげていきました。

FCザンクトパウリはそんな環境にあるチームです。
そのため、このチームのサポーターたちには、マリファナを栽培する人もいれば、拳銃を闇で販売する人、娼婦、自称ミュージシャン、さらにはアナーキストなど、様々な人々で構成されています。しかも人種も様々です。
ある意味で、人種差別とは対極に位置し、ネオナチとも正反対の人といえます。

実際、2006年にはケムニッツFCのサポーターで、排他的な差別主義者たちがレーパーバーンのトルコ人の店を襲ったという事件がありました。
これに対してFCザンクトパウリのサポーターは、勇敢に対抗していきました。
彼らにとってネオナチや右派のフーリガンに対して、まちなかでの戦闘は珍しくないことだったのです。
ケムニッツは旧東ドイツの都市で、ここでは、2018年にネオナチによりユダヤ料理店が襲撃を受けたという事件もありました。

ネオナチを「右」とするならザンクト・パウリは完全な「左」となりますが、そのように形式的に語るのは無理があるかもしれません。
確かに彼らは人種・民族から職業、性別等々、差別のない人たちといえます。しかしそのような状況になったのは、レーパーバーンの土壌によるものです。非合法も含む混沌とした街に集まる人々によって、ある種の共同体に似た独特の空間がつくられてきたからです。
それを左翼的と表現するには違和感があります。
ただ、船便輸送での限界点もあり、港湾労働者たちの不況による解雇や賃金問題があり、いわゆる労働者階級の問題が発生していたのは事実です。ストライキなども多くあり、その混乱を助長するように反体制の人々が加勢したりすることで、左翼色が出たことは事実といえます。

それでもザンクト・パウリは混沌とした異世界を維持し、旅人にも非日常の扉を開けています。
その世界は右も左も関係のない、欲望の渦巻く人間の世界なのです。
それ以上でも以下でもありません。

ここで個人的な話に移すと、ザンクト・パウリにはかなりの思い出があります。

初めて足を踏み入れたのは大学時代でした。
文字通り右も左もわからない状態で、ハンブルク中央駅から地下鉄に乗って、レーパーバーンへと向かったことを今でもよく覚えています。その当時の感覚としては、怖いもの見たさもあり、その半面で新宿の歌舞伎町に行く気軽さの感覚もありました。
夜ではあったものの、それほど遅い時間ではなかったと記憶しています。
たまたまコペンハーゲンで知り合った自称カメラマンと一緒に、夜行列車でハンブルクに着きました。
宿はユースホステル。そこで小休止し、アルスター湖周辺をフラフラと散策し、夜になってレーパーバーンに向かったのです。

ハンブルクに来る前は、ソ連から北欧を経由しての旅だったこともあり、訪れたどの都市も地味で、毳毳しいほどのネオンが恋しかったという側面はあったかもしれません。あるいは単純に繁華街で背伸びして遊んでみたいという好奇心だったのかもしれません。

地下鉄の駅はザンクト・パウリでもレーパーバーンでもなく、フェリーのターミナルのあるランドゥングスブリュッケンで下車し、ヘルゴレンダーアレーからビスマルク記念碑を通って向かいました。このルートを選んだのは夜の港から繁華街へと向かうのがベストだと判断したわけではなく、単純にその途中に宿泊場所があったからでした。
樹木に囲まれたビスマルク記念碑周辺は、日本では歌舞伎町に対する新宿御苑のような感じです。

ブダペスター通りに出てすぐ左手はミラートンプラッツ、ここで左に入るとレーパーバーンです。
すぐキャッツの劇団を目にしました。向かい側はカジノです。
歌舞伎町と異なり、中央のレーパーバーンがそれなりの規模の道路なので、最初はゴミゴミとした印象はありませんでした。それでも路地を入っていくとそこは完全な異世界でした。

街頭に立つ若い娼婦も増え、よく声をかけてきます。
ドイツ人だけでなく、トルコ人やアジア系、中には黒人もいました。

今ではドイツの主要都心では見かけることが多くなったようですが、ここレーパーバーン発の施設としてエロスセンターもありました。
1960年代後半に、ハンブルク市議会の承認によって誕生しました。
当然ながら市民の税金で建物を用意し、管理も市が行いました。その誕生理由は、売春行為を必要悪として捉えることにあり、根絶する事が不可能である以上、娼婦の安全と福祉という観点から行政で管理できる施設をつくったというものです。
このようにいうと、行政による管理売春というイメージを持つかもしれませんが、実は、行政は場の提供であって、個々の部屋の賃貸や営業行為については娼婦の責任で行うということになっています。また客は、入場料も部屋代は不要になっているようです。

貧乏大学生は、そのような施設は見学だけでしたが、それでも刺激的なことは間違いありませんでした。

ちなみにコペンハーゲンで知り合った自称カメラマンは、ここで遊んでしまったので、最初は立呑の店でビールを飲んで待っていましたが、やがて馬鹿らしくなって一人で帰りました。

ところで、1990年10月3日にドイツは東西統一となりました。
実はこの日もドイツにいました。
本当はハンブルクにいる予定を組んでいたのですが、ウィーンで大幅に予定が狂い、その統一の日は、ネッカー川沿いの小さな村で迎えることになりました。
素朴な村で統一を祝うのも悪くはありませんでしたが、本当はレーパーバーンの喧騒の中で、そこに集まる人々がその悲願だった統一をどのように感じるのか、また、どのように騒ぐのか、それを体験したかったのです。

ザンクト・パウリの夜はまだまだ自分にとって刺激的で、無秩序のようでいて、どこか心地よい不思議な空間です。
もしかしたら何か変化しているのかもしれません。
それでも日常のストレスが簡単に解放される夜であり続けていると信じています。

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